これだけ覚えろ!世界の歴史で押さえておきたい10のポイント

これだけ覚えろ!世界の歴史で押さえておきたい10のポイント今回は、世界の歴史において現在にまで起こった主だった出来事について紹介していきます。

現在我々が生きている世界は、どのような契機を経て形成されていったのか、その歴史に迫ります。これだけ覚えておけば、世界の歴史の大きな流れはつかめるポイントをお伝えするので、受験生もそうですが、社会人になり教養として世界史の知識をつけたい方にもおすすめの記事です。

 

これだけ覚えろ!世界の歴史で押さえておきたい10のポイント

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農耕と文明の誕生

農耕は今から1万1千年ほど前、現在のシリア・レバノン周辺にて始まったと言われています。また少し時代が下って1万年ほど前中国の長江流域でも稲作が開始されました。

農耕以前、人類は狩猟や採集などをしながら各地を流浪するという生活を送っていましたが、農耕が始まることによりある一定の土地に定住をするというライフスタイルが広まっていきます。

このように定住が進んでいくことにより、次第に文明が発達するようになります。初期の文明は大河の周辺にて形成されることが多かったのですが、これは定期的に大河が氾濫を起こすことにより、栄養素を土壌に補充する機能を果たしたためと考えられます。

やがて、かつてのように河川の氾濫という自然の営みに任せるのではなく、人為的に水を田畑まで引くという灌漑技術が開発されていきます。

こうした灌漑農業においては水路などの所有権や大規模な農場の運営の必要性が認識されるようになり、次第に強力な指導者、および統治機構が作り上げられていきます。これが古代国家の誕生です。

 

ギリシア文明

初期の文明は大規模な農耕によって成り立っていたため、必然的に広大な平地を必要としていました。こうして平地において文明が発達してしばらくすると、平地以外の場所においても次第に文明が興り始めます。商業や流通が発達するためです。

古代ギリシアは、このような交易によって発展した初期の文明です。初期ギリシア文明は農耕と交易によって生計を立てる農民たちの小規模な集合体のようなものでしたが、次第にアテネやスパルタのような強固な都市国家(ポリス)を形成していきます。

都市国家同士は当初は戦争を繰り返しておりましたが、紀元前500年にペルシアが進行してきたことによりデロス同盟が結ばれ、連合軍となってペルシアを迎え撃ち、これを撃退します。

ところがペルシア戦争後、再びギリシア世界は戦乱の時代に突入します。紀元前431年のペロポネソス戦争によりアテネがスパルタに降伏し、さらにその後スパルタも衰退していきます。

スパルタは新興ポリスであるテーベによって滅ぼされますが、その直後北方のマケドニア王国がギリシアに進行します。テーベはアテネと同盟を結びこれを迎え撃ちますが結局敗北してしまい、その後ギリシアの諸ポリスはマケドニアの支配下に置かれていきます。

このマケドニアに君臨していたアレキサンダー大王はさらに勢力を伸ばし、ギリシアのみならずエジプトや果てはインドまでを勢力に収めていきます。ところが紀元前323年にアレキサンダー大王が急逝した後、マケドニアは分裂を繰り返し、次第に衰退していくこととなります。

 

ローマ帝国の成立とキリスト教の権威化

衰退するマケドニアに代わって勢力を伸ばしていったのがローマ帝国でした。イタリア半島を統一したローマはポエニ戦争に勝利することで北アフリカを勢力下に置き、さらに紀元前146年にマケドニアを征服します。

このようにローマが勢力を拡大していった頃、ローマの支配下にあったイスラエルにてイエスが登場します。イエスは紀元後30年に処刑されてしまうのですが、その教えは弟子によって伝えられ、キリスト教が興ります。

キリスト教はローマ圏において急速に普及をしていきますが、当初は弾圧の対象であり、多くの信者が殉教していきました。

それでも尚キリスト教の普及は止まること無く、4世紀にはローマ圏内においてもキリスト教を公認する国家が現れ始めます。

これを受けて313年にコンスタンティヌス1世とその義理の弟で東ローマを支配していたリキニウスによって「ミラノ勅令」が発せられ、以後キリスト教はローマの国教として公認されるようになっていきました。

 

ローマ帝国の興亡

紀元前2世紀頃、地中海周辺において覇権を確立したローマ帝国でしたが、その内部では貧富の格差や元老院の腐敗による混乱を抱えていました。

軍人ポンペイウスと財界人クラッスス、そして当時庶民の間で人気の高かった将軍シーザーは、腐敗した元老院に対抗して三頭政治を開始します。しかしクラッススの死後、ポンペイウスは元老院の側につき、シーザーと対立をしていきます。

その後の内戦においてシーザーはポンペイウスを倒し、終身独裁官に就任します。こうして独裁色を強めるシーザーでしたが、それに危機感を抱いた共和派によって暗殺されてしまいます。その後、その共和派もシーザーの元部下であるアントニウス、レピディスおよびシーザーの養子であるオクタヴィアヌスによって倒され、この3名によって第二次三頭政治が開始されます。

しかしその後アントニウスとオクタヴィアヌスの間で対立が激化し、さらにアントニウスは失政により民衆の支持を失ってしまいます。結局アクティウムの海戦に敗れたアントニウスはエジプトへと敗走、アントニウスは自殺し、彼と婚姻関係にあったエジプト女王クレオパトラもその後を追い、オクタヴィアヌスはエジプトを併合します。

この勝利によってオクタヴィアヌスはローマ初代皇帝アウグストゥスとなり、ローマは共和制の時代を終え、古代ギリシアから続いてきた古代民主制は終焉を迎えます。

このアウグストゥス以後、ローマは世襲による五賢帝時代に入りつかの間の安定をしていきます。ところが五賢帝最後の皇帝であるマルクス・アウレリウスの時代に入ると疫病の流行や北方のゲルマン民族の襲来により、またローマは混乱の時代に突入していきます。

こうしてゲルマン民族などの脅威が高まることにより、ローマ帝国内部においては次第に軍の勢力が増大していきます。3世紀のローマにおいては各地に点在していた軍団がそれぞれに皇帝を推し、それぞれに争ったため混乱が生じていました。

その後コンスタンティヌス一世によってローマは再統一がなされ、一旦は安定しますが、今度はイラン高原にて勢力を拡大しつつあったペルシア朝の脅威が増していきます。

これに対抗するためコンスタンティヌス一世はローマからコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)へと遷都しますが、これによって再びローマは分裂を始めていきます。395年、当時のローマ皇帝であったテオドシウス一世はその死に際して自らの二人の息子にローマ帝国を割譲し、これにより帝国は東西に完全に分離することとなりました。

こうして東西分離したローマ帝国でありましたが、西ローマ帝国はゲルマン人の脅威によって衰退し、同時に既に西ローマ帝国に居住していたゲルマン人たちが西ローマ帝国をゲルマン人から防衛するようになっていきます。

こうして力をつけたゲルマン人のリーダーである傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス帝が退位させられ、476年ついに西ローマ帝国は滅亡します。

一方で東ローマ帝国はペルシア朝の侵攻がそれほど激しくなかったため次第に政治基盤を安定させ、その1000年にわたって帝国を維持していくこととなります。

 
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十字軍の遠征

4世紀半ばを過ぎると、ゲルマン民族やペルシア朝の侵攻により、少しずつ東ローマ帝国にも衰退の兆しが見え始めます。

しかしその後5世紀には東ローマ帝国がペルシア朝へ反撃に打って出ます。ペルシア朝の首都クテシフォンを陥落させた東ローマ帝国はこれを併合しますが、新興勢力によってこの地を奪われてしまいます。この新興勢力こそイスラム勢力でした。

イスラムたちはこの後ペルシア朝全土を制圧し、さらに東ローマ帝国からエジプトやシリアを奪います。その後の東ローマ帝国とイスラム勢力(アッバース朝)との戦いは一進一退を繰り返していきます。

さて、一方今はなき西ローマ帝国の跡地においてはゲルマン人達による小規模な国家が次々と作られていきました。この国家群は離散集合を繰り返しながら、次第に巨大な王国となっていきます。これがフランク王国です。

フランク王国はローマ教皇(カトリック)に帰依し、名実ともに西ローマ帝国の後継国家として認知されるようになっていきます。そして800年のクリスマス、ローマ教皇レオ三世はフランク王国のカール大帝を西ローマ帝国の皇帝に就任させます。ところがカール大帝の死後、フランク王国は政治的に混乱していき、843年、ヴェルダン条約によってついに3つの王国に分裂してしまいます。

また、イスラム世界においても初の統一王朝であったアッバース朝が元々奴隷であったトルコ人達によって制圧され、セルジュク朝となります。このセルジュク朝はエルサレムもまた支配下に置いていましたが、これがキリスト教勢力の反発を強めていきました。10世紀頃になるとキリスト教勢力とイスラム教勢力との間の対立が激化していきます。

元々イスラム勢力に手を焼いていた東ローマ帝国は、1095年「聖地奪還」を名目としてローマ教皇に援軍を要請します。教皇はこれを承諾しフランスやイタリアの軍勢を中心として十字軍を組織します。第一回十字軍はセルジュク朝の軍を撃破し、セルジュク朝の領地を奪い衛星国家を建国していきました。

十字軍は一度は聖地エルサレムを奪いますが次第に形成が逆転、聖地も奪い返されてしまいます。

そうした中でも十字軍は繰り返し編成され、聖地の再奪還へ向かうのですが、次第に軍規は乱れ、略奪や虐殺事件が度重なり、ローマ教皇の権威は失墜していき、さらに第4回十字軍に至っては何故か東ローマ帝国を攻撃し、大混乱のまま終焉を迎えます。

 

宗教改革とルネサンス

十字軍の失敗によってローマ教皇、教会の権威が失墜して以降、ヨーロッパ各地で既存の宗教体制への批判が巻き起こります。

資金繰りにも苦しむようになったローマ教会は免罪符を発光、これを購入することで現世での罪が清められるとしましたが、これがドイツ人ルターなどに批判され、こうした批判に賛同する者達によってカトリックに抵抗(プロテスト)する者達によりプロテスタント教会が作り出されます。

やがてカトリックとプロテスタントの対立は激化し、30年戦争や清教徒革命などに繋がっていくこととなります。

一方、14世紀のイタリアでは、古代ギリシアの文化の模倣に端を発するルネサンス運動が盛んになっていきます。これら宗教改革とルネサンス運動は次第にキリスト教の権威を相対化し、神の存在を前提としない科学思想が興り始めます。

 

絶対王政とウェストファリア体制

第4回十字軍によって一度は滅ぼされた東ローマ帝国でしたが、主要な貴族たちはトルコのニケーア帝国に亡命し、そこから帝国を復活させます。一方フランク王国から分裂したフランス王国では1339年にフランドル地方の領有権を巡って海を隔てたイギリス王国との間で百年戦争が勃発します。

1453年、百年戦争はフランス王国の勝利によって幕を閉じますが、敗れたイギリス王国では王位継承権を巡ってランカスター家とヨーク家との間で内戦が勃発、これを薔薇戦争と言います。

この薔薇戦争は両家の和解によって終結するのですが、これ以後この戦争に加担した貴族たちの力は弱まり、その代わりとして国王が大きな力を持って立法司法行政を担っていくようになります、このように国王が絶対的な権力(主権)を有するのが絶対王政です。

こうした絶対王政体制はポルトガルやスペインにて一足早く始まっており、後にフランスなどもこうした体制へと移行します。

こうした絶対王政国家は世界へと進出し、大航海時代を迎えます。当初はポルトガルおよびスペインが圧倒的な勢力を誇り、文字通り「世界を二分する」とさえ言われておりましたが、アマルダ戦争の敗北によってスペインが衰退するにつれ、イギリスが次の覇権国家として成長をしていくこととなります。

一方そのころフランク王国から分裂した神聖ローマ帝国によって支配されていたドイツでは宗教改革の影響によってカトリックとプロテスタントの対立が激化し、三十年戦争が開始されます。

この戦争は周辺のヨーロッパ各国を巻き込んだ大戦争となり、甚大な被害をもたらします。1648年、この戦争は膠着状態の中終焉し、ウェストファリア条約が締結されます。

これによりカトリックとプロテスタント双方に侵攻の自由が認められ、後の「内面の自由」「思想信条の自由」という近代法の原則が出来上がっていきます。

 
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近代市民社会の成立

ウェストファリア条約以後、神聖ローマ帝国は分裂し、ヨーロッパ各地で人々が信仰の自由を公的に認めるよう運動を起こしていきます。

こうした流れの中で起こったのがイギリスにおける清教徒革命でした。清教徒(プロテスタント)を中心に起こったこの革命により、国王は納税者の同意なしに新たな課税をすることが出来なくなりました。この後イギリスでは産業革命が起きますが、そこで過酷な労働を強いられた労働者達によりチャーチスト運動などが起こります。

チャーチスト運動自体は失敗に終わりますが、国王権力は次第に衰退していきます。そして1832年に貴族階級以外にも初めて選挙権が認められるようになりました。

また、これと前後してイギリスの植民地であったアメリカでも独立戦争が勃発。1776年「個人の自由」を謳った独立宣言とともにアメリカ合衆国が成立し、「言論・表現の自由」などを認めた合衆国憲法が制定されます。

またフランス王国においてもパリ蜂起に端を発するフランス革命が起こり、共和制が開始されます。

 

二度の世界大戦と国際機関の成立

ウェストファリア条約以後19世紀までのヨーロッパにおいては、主権国家同士の間での問題解決が外交交渉で解決しない場合において、戦時国際法によって規定された範囲において限定的に戦争が行われてきました。

ところが第一次世界大戦の少し前より、戦争はあらゆる対象を殲滅することを目的とした総力戦へと変貌していきます。この第一次大戦での想像を絶する惨禍を目の当たりにした国際社会は国際連盟を発足させ、国家間の外交問題解決のための戦争を禁じ、唯一侵略に対する防衛戦争のみを認めるようになります。

しかしこの「防衛戦争」における戦争は対等な「主権対主権」の戦いではなく、「加害者対被害者」の戦いとなります。戦争においてはどちらの陣営もまた自らを「被害者」と規定し「加害者」としての敵を殲滅しようとします。

この「加害者の殲滅」を目的に戦われたのが第二次世界大戦であり、結果として第一次大戦以上の惨禍をもたらしました。第二次大戦後創設された国際連合においては安保理決議によって全会一致において認められた戦争のみが正当性を有するという形になりました。

ところが、東西冷戦によって安保理理事国であったアメリカとソ連を中心とした対立が発生し、国際連合は機能不全に陥ってしまいます。

東西冷戦終結後、1990年の湾岸戦争などにおいてはこの安保理決議が「正当な戦争」の認証として機能しましたが、その後アメリカが2003年に安保理決議に基づかない形でイラクを攻撃したことから再び国連は混乱に陥っていくこととなりました。

 

グローバルネットワークと情報空間時代の到来

ポルトガルとスペインが覇権を争った大航海時代以後、世界全体が資本主義における市場としてみなされるグローバルキャピタリズムの時代が到来していきます。

こうした流れは東西冷戦など幾度か停滞する機会を持ちますが、冷戦崩壊後は世界全土を席巻し、国家などの「主権装置」の力を「資本」が上回るという時代が到来しつつあります。

また東西冷戦下においては核などによる都市攻撃の脅威があったことから、情報を一元的に集約することのリスクが認識されるようになりました。こうして情報を分散、共有する必要性から異なるコンピュータ同士を連結させるということが実用化されます。これがインターネットです。

グローバルキャピタリズムとインターネットはこの世界にもう一つの世界、すなわち「情報空間」を作り上げました。この情報空間においては今まであれば考えられなかったような事物が時空を超え思わぬ形で接触するようになり、これにより絶対王政、市民革命以降の「主権」「個人の主体」という概念が大きく揺らぎつつあります。

 

まとめ

これだけ覚えろ!世界の歴史で押さえておきたい10のポイント

 

・農耕と文明の誕生

・ギリシア文明

・ローマ帝国の成立とキリスト教の権威化

・ローマ帝国の興亡

・十字軍の遠征

・宗教改革とルネサンス

・絶対王政とウェストファリア体制

・近代市民社会の成立

・二度の世界大戦と国際機関の成立

・グローバルネットワークと情報空間時代の到来

 

いかがでしたか?

今回紹介したのは、世界史の大きな流れとなります。

もし興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、より深く探索をなさってみることをオススメいたします。


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