豊臣秀吉が天下統一を成功させたキッカケ「長久手の戦い」とは

豊臣秀吉が天下統一を成功させたキッカケ「長久手の戦い」とは”長久手の戦い”とは”小牧・長久手の戦い”とも良い、その呼称は文献や史料によって多少のブレが見て取れますが、ここでは取り敢えず”長久手の戦い”と呼称することといたします。

”長久手の戦い”は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と織田信長の次男である織田信雄、徳川家康の連合軍との間で天正12年(1584年)に行われた戦いです。

今回はこの戦いがどのようにして勃発し、進展し、終結し、後にどのような影響を及ぼしたのかについて紹介をします。それでは、早速見ていきましょう

 

豊臣秀吉が天下統一を成功させたキッカケ「長久手の戦い」とは

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その背景から勃発まで

この戦いの2年前、1582年の”本能寺の変”にて織田信雄の父親であり、当時ほぼ天下を統一した状態であった織田信長が死没します。

この時信長を討ったのは、織田家家臣団の重鎮明智光秀であったのですが、この明智光秀を羽柴秀吉が討ち取ったことにより、織田家家臣団においてトップの座に躍り出ます。

羽柴秀吉は信長の後継者として信長の嫡男であり、”本能寺の変”にて没した織田信忠の子である三法師(後の織田秀信)を擁立したことから家臣団の古参であり、信長の三男を擁立した柴田勝家と対立します。

この翌年”賤ヶ岳の戦い”が勃発し、敗北した柴田勝家は自害します。

織田信雄は弟である信孝と後継者争いにて対立していたということもあり、”賤ヶ岳の戦い”では秀吉方に付き勝利をおさめるのですが、その後秀吉の権力の拡大に危機感を持った信雄は同じ危機感を持った徳川家康と同名を結び、さらに自分の家臣の内、秀吉と関係の深い三名を切腹させます。

これに激怒した秀吉は信雄への懲罰的な出兵を決意しますが、徳川家康が信長後継者として信雄を擁立し、さらに家康と並んで関東に勢力を有していた北条氏や四国の長宗我部氏、北陸に勢力を有し織田家の古参家臣でもあった佐々成政などが家康方に付き秀吉は包囲される形となりました。

 

戦闘の経過

前述のとおり、日本全国に着々と秀吉包囲網が形作られていったのですが、実際の戦闘は1584年3月9日に信雄の家臣である神戸正武が秀吉の家臣である関万鉄のいる亀山城を攻撃したことによって開始されます。

秀吉方に付いた元織田家重臣である蒲生氏郷が亀山城へ援軍を派遣しこれを撃退します。

同時に同じく元織田家重臣であり、信雄方に付くと思われていた池田恒興が突如秀吉方に寝返り、息子である池田元助と家臣である森長可(本能寺の変で没した森蘭丸の兄)を信雄方にある犬山城に派遣し、ここを占領します。

しかし犬山上の占拠を事前に察知していた徳川家康はこの間に尾張の小牧山を占拠しさらに森長可を攻撃しこれを撃破します。

小牧山を占拠した家康軍と秀吉軍は膠着状態となりますが、池田軍および秀吉の養子である羽柴秀次らの軍勢は密かに三河へと進軍を開始します。ところが家康軍はこれを察知し信雄の軍勢とともに小牧山から出発し、秀吉方の後を追います。

池田軍と秀次軍は隊を二分し、池田軍は徳川家の家臣である丹羽氏重の居城である岩崎城を攻め、これを落としますが、ほぼ同時刻に秀次軍が家康方の軍勢によって奇襲を受け壊滅します。

家康軍は秀次を追撃しようとしますが秀吉の家臣である堀秀政の軍勢によって襲撃を受け返り討ちに遭い敗走します。

しかし逃げながらも軍勢を立て直し、信雄軍と合流した家康軍は堀秀政軍と池田、森軍が合流しようとしたところを襲撃、これを分断し堀軍を撤退させます。家康は家臣である井伊直政に自信の軍勢を割き、信雄軍と併せ全軍を三分割し陣形を整え、秀吉を迎え撃とうとします。

4月9日、ついに家康・信雄軍と池田・森軍が長久手において正面から激突します。両軍一進一退の攻防を続けましたが森長可が戦死したことにより家康・信雄軍が優勢となり、池田軍は敗走、小牧山に攻撃を仕掛けようとしていた秀吉本隊も撤退します。

その後秀吉軍は楽田城に入り、家康・信雄は小牧山にて守りを固め、再び戦線は膠着状態となります。すると秀吉は突如美濃へと進軍を開始し、それに伴い家康は秀吉方であり元織田家重臣である滝川一益と九鬼嘉隆を海上にて攻撃、これを撃破します。

この状態を嫌った秀吉は突如として方針を転換、信雄に講和を持ちかけこれを受諾させることに成功します。

これにより織田家の再興を大義名分としていた家康は撤兵せざるを得なくなり、これにて長久手の戦いは集結します。この後家康は秀吉に服従の意を表し、以後秀吉が没するまでその政権運営をサポートします。

 

その後の政情への影響

この戦いによって明らかとなったのは「織田家の権威」が失墜したということです。織田信雄は家康の力無しには何も出来ないという烙印を押されてしまいます。

一方秀吉は最大の敵である家康を結果的に退けたということで天下統一に向け大きく前進をしますが、一方で家康を打ち取ることが出来なかったということもあり、その武力には疑問符がつくこととなり、征夷大将軍への任命はついになされることはありませんでした。

秀吉はこのことを理解し、征夷大将軍の職を諦め、その代わりとして関白を目指すようになります。

 

まとめ

豊臣秀吉が天下統一を成功させたキッカケ「長久手の戦い」とは

 

・その背景から勃発まで

・戦闘の経緯

・その後の政情

 

いかがでしたか?

この戦いによって秀吉は織田家に代わり「天下人」としての座を確かなものとしました。

歴史が動いたこの戦い。理解を少しでも深める手助けができたのでしたら幸いです。


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