日本の歴史の真実!戦国時代の裏舞台が面白くわかる7つの謎

歴史の真実!戦国時代の裏舞台が面白くわかる7つの謎今回は、日本の歴史の裏舞台として「戦国時代の謎」についてお伝えします。

戦国時代は一般的には1493年に当時の室町幕府管領であり、将軍に次ぐ権力を有していた細川政元が、室町幕府9代将軍足利義尚の母であった日野富子に指示される形にて10代将軍足利義稙に対してクーデターを起こし、足利義澄を11代将軍の地位に就けてしまうという明応の政変に始まり、1615年の大阪夏の陣により豊臣家が滅亡したことによる元和偃武(元号が「元和=平和の始まり」に変更された)に至るまで、100年以上にわたって日本全国が内戦に明け暮れていた時代を指します。

これまで戦国時代は日本全土が混乱をしていたということもあり、また残された史料もそれを記述した側が自らの正当性を主張するというプロパガンダ的な性質が色濃いものが多かったなどの理由で謎の多い時代であるとされてきました。

しかし近年では研究も進み「戦国時代の謎」はかなりの部分が解き明かされたとも言われています。

しかしその一方では未だに解明されていない、いくつかの謎が残されたままになっているというのも事実です。では、その「謎」とは一体どのようなものなのでしょうか。それでは、早速見ていきましょう。

 

日本の歴史の真実!戦国時代の裏舞台が面白くわかる7つの謎

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長篠合戦の白装束集団

長篠合戦(長篠の戦い)は1575年の6月29日、三河国長篠城を守る徳川家康の家臣である奥平信昌を武田信玄の息子武田勝頼が攻めたことに端を発する戦いです。

この戦いにより武田家は壊滅的な敗北を喫し、1582年の天目山の戦いにて滅亡をします。この戦いにおいては従来織田信長の「鉄砲三段撃ち戦法」が勝因として語られてきましたが、これは現実には実行不可能な戦術であったとされ、また武田側の騎馬隊の存在すらも史実ではなかったと言われています。

当時の武田軍は大量の火縄銃とそれをあつかう鉄砲隊を組織しており、実際には大規模な銃撃戦が行われたものの数において劣勢であった武田軍が力負けをし、陣形を崩されたということが勝負の決め手となったようです。

さて、この長篠合戦は後に屏風絵の題材となるのですが、この屏風絵には一つ不思議な点があるということが知られています。

それは屏風絵における織田信長の本陣に謎の白装束の集団がおり、しかもその白い袴には六芒星が描かれているというものです。

この六芒星は5世紀から9世紀にかけて大和朝廷において祭祀を司る役目を負い、大きな権力を持っていた忌部氏のものであり、織田家はその忌部氏の子孫であるとされてきたということに由来するのではないかと言われています。

一説によるとこの忌部氏は2000年前に日本にやってきたユダヤ人たちの末裔であるとされ、そのため家紋として六芒星が使用されているとも言われています。

 

中国大返しは可能であったか

1582年、織田信長は家臣である明智光秀の謀反により本能寺にて自刃します。

しかし、この際、当時中国地方の毛利氏と交戦中であった羽柴秀吉が織田信長の死の一報を聞き即座に毛利氏と和睦を結び、軍勢とともに姫路城へと帰り装備を整え天王山にて明智光秀の軍勢を撃破したとされるのが中国大返しです。

しかしこの中国大返しに関しては、それが本当に可能であったのかどうかということが現在においても疑われ続けています。

中国大返しは一週間のうちに備中から京都の天王山まで235kmの距離において軍を動員するというものであり、装備品などは別に海上輸送をしたのですが、たとえ軽装であったとしても当時の兵士の移動手段は徒歩でした。

しかも、一日30キロ以上の距離を徒歩で移動し、その後京都にて万全の体制を整えていた明智軍と戦いこれを撃破することが可能であったのか、という疑問があります。

また移動の途中で兵の食料を準備し、装備品の海上輸送の手はずを整えたのは石田三成であったのですが、これがあまりにもスムーズに行き過ぎている、ということも言われております。

これらのことから、実際には秀吉は明智光秀の謀反を予め知っており、裏でそれに対処をする準備をしていたのではないか、という指摘があります。

また、さらに一歩進んで秀吉が光秀に対し謀反を唆したのではないか、との説も唱えられております。

 

濃姫のその後

濃姫は美濃の斎藤道三の三女であり、父である道三が1544年に織田信長の父である信秀との間に和睦を結んだことにより織田家の許嫁となり、1549年に信長の元へ嫁いだと言われています。

ところがその後この濃姫は歴史の表舞台からその名を消し、その後の消息、死没年などは一切不明なままになっております。ですがその後の研究により、濃姫の生涯にはいくつかの有力と思われる説が唱えられるようになりました。

まずその一つ目が、信長との婚約の後離縁をし、その後死亡してしまった、というものです。1638年に書かれた『濃陽諸士伝記』では、道三の息子である斎藤義龍が病没した1561年に同じく濃姫が既に死去しているとも読める記述が存在しています。

では何故濃姫は死ななければならなかったのでしょうか。

それは義龍と信長が対立したことにより斎藤家と織田家との和睦が破棄され、それにより信長と離縁し美濃へと戻ったものの、斎藤家の当主である義龍は父の道三や義龍の弟を殺害したことにより斎藤家の当主となったのであり、その関係上濃姫も義龍によって攻められ殺害されてしまったというものです。

ただし道三は死没する前、美濃の正統後継者として信長を指名しており、それ故信長と離縁をしなければならない謂われはなく、またその後の文献にも濃姫と思われる女性が登場するなどの異論もあります。

二つ目の説は本能寺の変において信長とともに死亡した、というものです。濃姫は薙刀の名手であったとも言われており、信長とともに本能寺で戦い戦死、あるいは自害したとの記録も残されており、また本能寺には濃姫遺髪塚なども残されています。

三つ目の説は本能寺の変のあとも生き延びた、というものです。本能寺の変の後について書かれた文献には「安土殿」という位の高い女性が登場するのですが、これが濃姫なのではないかとの説もあります。

 
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弥助のその後

弥助とはイタリア人宣教師がモザンビークもしくはインドより連れてきたとされる奴隷であり、織田信長に献上された後、正式に家臣として召し抱えられた人物です。

弥助は信長の側近として働いており、1582年には信長とともに本能寺に宿泊、そこで明智光秀の謀反に遭遇します。明智軍に捕らえられた弥助は命を取られることはなく、南蛮寺(カトリック教会)へと身柄を輸送されました。

その後の弥助の消息は不明ですが、キリシタン大名である有馬晴信に仕え、大砲の指揮官あるいは射手として活躍したと見られる文献が残されているほか、故郷であるモザンビークへと帰っていったという説もあります。

現にモザンビーク(モザンビーク島)には「ヤスフェ」という男性名が比較的多く見られ「弥助」という名前はこれを元にしているのではないか、とも考えられています。

また同島には「キマウ」という日本の着物によく似た衣装を身にまとい踊る祭りがあるということから、弥助は最終的には故郷に帰り、この地に日本の文化を現地に伝えたのではないか、とも言われております。

 

明石全登のその後

明石全登は豊臣秀吉に仕えた武将であり、熱心なキリスト教徒でもあった人物です。関ヶ原の戦いにおいては退却戦において殿軍を務め、宇喜多秀家を大阪まで逃げ延びさせました。

その後はさまざまなキリシタン大名の元を周り、浪人的な生活をしていたようです。

大阪の陣においては豊臣秀頼直属の部下として参戦しましたが、大阪夏の陣最後の戦いである天王寺・岡山での戦闘において徳川方の包囲網の突破に成功した後、突如として行方をくらませてしまいました。

戦死した、あるいは逃げ延びたなどさまざまな説があり、一説にはヨーロッパに渡ったなどとも言われていますが、はっきりとしたことは何も判っていません。

 

千利休切腹の理由

千利休は堺の商家に生まれた商人であり、堺の南宗寺の僧侶であり、そして何よりも茶匠として有名な人物であります。

織田信長が堺を直轄領としたとき茶頭として仕えるようになり、本能寺の変の後には豊臣秀吉に仕えました。当時の茶の湯は大名などにとっては己の品位を示すパラメータでもあり、外交手段でもあったため、茶匠は大変に重用されていました。

ところが千利休は1591年、秀吉の怒りを買い謹慎処分を受け、半月後には切腹を言い渡されてしまいます。

何故秀吉は利休に対して切腹を申し渡したのか、その理由は今なおはっきりとは分かっていません。しかし秀吉は利休の介錯された首を利休自身の木造に踏ませる形にて晒しものにしたということから、かなりの怒りを持っていたということが推測されます。

切腹の理由としては「秀吉との間で茶道観の対立があった」「茶器類を勝手に売り払い私腹を肥やしていた」「南宗寺と縁の深い徳川家康の依頼によって秀吉を毒殺しようとした」「秀吉の次男とされる鶴松が本当の子では無かったということを知っていた」などなど、さまざまな説が唱えられています。

 

果心居士

果心居士は筑後国の出身であるという幻術師であり、織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀などさまざまな有力大名の前でその幻術を披露したと言われる人物です。

「笹の葉を魚に変えた」「松永久秀の死んだ妻の幻影を出現させた」「彼の能力を恐れた豊臣秀吉に磔にされたものの、ネズミに姿を変え脱出した」などなど、さまざまなエピソードが残されています。

生没年不詳であり、前述のとおり豊臣秀吉によって処刑されたという話もあれば、1612年に駿府城にて徳川家康の前で幻術を披露したという逸話も残っています。

 

まとめ

日本の歴史の真実!戦国時代の裏舞台が面白くわかる7つの謎

 

・長篠合戦の白装束集団

・中国大返しは可能であったか

・濃姫のその後

・弥助のその後

・明石全登のその後

・千利休切腹の理由

・果心居士

いかがでしたか?

近年では急速に解明が進みつつある戦国時代ですが、ここに挙げられた以外にもまだまだ「謎」が残されている可能性はあります。興味を持たれた方はぜひ調べてみてください。


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