ジャックナイフとまで言われた『千原ジュニア』の人生を変えた転機

お笑いコンビ「千原兄弟」の弟、ピンでは「千原ジュニア」として活躍している千原浩史(ちはら・こうじ)さんは、いくつものレギュラー番組を持つお笑い芸人です。

コンビ結成後、大阪で圧倒的人気を獲得し、「大阪若手芸人のカリスマ」となった千原兄弟は、意気揚々と東京へ進出を果たしますが、待ち受けていたのは想像もしなかった落とし穴が待ち受けます。

また、彼自信の人生自体にもいくつもの落とし穴があって、彼は何度も何度も、暗い闇から這い上がって来たのです。

 

ジャックナイフとまで言われた『千原ジュニア』の人生を変えた転機

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笑顔を失くした少年が「笑い」と出会う

千原ジュニアさんは、奔放な兄・せいじさんを見て育ったせいか、正反対の神経質でナイーブな少年でした。

小学6年生のとき、思い立って猛勉強し名門中学を受験、見事合格したのは良かったのですが、難関突破して気が抜けてしまったのと周囲になじむことができず、すぐに不登校になってしまいます。

自宅の部屋に引きこもった彼は、後に著書「14歳」で長い時間テレビの「砂嵐」(放送されてない画面)を見ていたと語っています。

これからどうなるのか、自分がどうしたいのか、自分は何のために生きているのか。彼は煩雑な迷路を歩いているような気持ちだったでしょう。

そんな彼に、すでに吉本NSC(お笑い養成所)に入学していたせいじさんから連絡がありました。久し振りに話した兄の用件は「家にいるんやったらネタ書いて持って来いや」とのムチャ振りでした。

「引きこもりに何させんねん」と思った彼ですが、言われた通りネタを書いて持って行きます。それを兄と二人で他の生徒たちの前で発表したら、他の生徒たちが笑っていました。

今までに聞いたことがない量の笑い声に彼は驚き、体に電気が走ったような衝撃を受け、「この世界でやって行きたい」と思ったそうです。

 

笑いのカリスマから一転、ウケない日々と突然の事故

1989年にお笑いコンビ「千原兄弟」は結成されました。この頃、大阪の笑いの現場は若手トップのダウンタウンが東京に進出したこともあり、新たなカリスマを求めていました。

シュールで毒気のある千原兄弟のネタは、同じく人気の高かった「ジャリズム」と大阪若手のツートップとして、テレビ出演だけでなく、吉本の若手の劇場「2丁目劇場」の頂点に君臨します。このとき、彼はまだ18歳という若さでした。

しかし1995年に急性肝炎で入院。

同時期に若手漫才師の1人が肝炎で急逝し、同じ病気ではと心配されましたが、そのようなことはありませんでした。

 

「東京進出」後の悲劇

1996年、千原兄弟は「準備期間は十分や!」と息巻いて、東京に進出します。

大阪で道をまっすぐ歩けないほどの人気でしたから、東京に行ったら更に躍進し、東京の天下までも獲れてしまうのではと期待していましたが、反して東京の反応は冷たい物でした。

大阪でウケていたネタがまったくウケない。「ジャックナイフ」と呼ばれた彼の鋭い視線にお客さんは引いてしまい、鳴り物入りで大阪から出て来たものですから、周囲の芸人たちも彼を遠巻きにして、悩みを離せるような友人もできませんした。

空回りするばかりの東京生活で、彼はライブに活路を見出します。「オレは芸人なんや、おもろいネタをやれば必ず分かってもらえる!」

そう信じた彼はネタを書き続け、定期的にライブを開催し、新ネタを試します。そうしているうちに「千原兄弟のライブが面白い」と噂が広まり、ようやく軌道に乗れるかと思った2001年。

彼は、バイクで転倒し4日間意識不明の重体で生死を彷徨ったのです。

 

絶望に射した光たちに導かれ

意識は回復したものの、彼が心に負った傷は体と同等のひどい状態でした。

腫れ上がり歪んでいる自分の顔を鏡で見たとき、彼は「終わった、もう芸人に戻れることはない」と覚悟を決め、喪失感に打ちのめされていました。

そんな彼を救ったのは、たくさんの先輩芸人や一緒に頑張って来た仲間たちでした。板尾創路さんはたくさんの雑誌を持って来て、それらを彼の前に「ドン!」と積むと、「お前何してんねん、はよ帰って来い」それだけ言って帰りました。

後に彼が当時のエピソードとして、一番上の雑誌が『BRUTUS』で、表紙が『今度はベスパに乗ろう!』だったというのがいかにも板尾さんらしいですが、狙ったのか天然だったのかはいまだにナゾです。

また、東野幸治さんはまだ何も食べられない状態の彼に漫画「美味しんぼ」を差入れします。しかも書店の棚からオトナ買いをしたものですから、抜けてる巻や同じ巻が何冊もある、といった状態だったそうです。

女優のYOUさんも足しげく病院に通い、彼が数か月振り食べ物を口にしたときは涙が止まらなかったと言っています。

ちなみにせいじさんは、事故当日に病院に来て以来、一度も見舞いには訪れませんでした。母親が見舞いを勧めてもせいじさんは「あいつは死なへん」と答えるだけで、彼が戻ってくるまでの間、舞台上でたった一人「千原兄弟」を守るべく戦っていました。

こうした仲間たちからの励ましで、彼は諦めかけた芸人の世界に復帰したのです。

 

お笑い怪獣との出会いが運命を変える

舞台での復帰を果たしたものの、テレビの仕事は簡単には舞い込みません。そんな折、彼は明石家さんまさんと会う機会がありました。

入院時、見舞いに行けなかったことを詫びた、さんまさんが「退院祝いは何がええ?」と聞いたところ、彼は「レギュラー(番組)下さい」と答えます。

さんまさんは笑って「分かった分かった」と立ち去りますが、その後、彼はテレビ局であるスタッフから突然呼び止められ、お礼を言われました。

何でも、さんまさんにずっと仕事のオファーをしていたが受けてもらえず困っていたところ、さんまさんからオッケーが出て、その条件が「千原兄弟をレギュラーにせえ」というものだったのです。

さすが大物は退院祝いもスケールが大きいと、彼は改めて偉大なる先輩を尊敬することになりました。

 

笑いは「誰か」のためにあるもの

彼は、事故に遭って人生観が変わったと言っています。

これまでは笑いが取れないと、「今日の客はあかんな」と思ってしまっていましたが、それからは「たくさんの人が笑ってくれるように、もっと笑いを共有できるように」と考えるようになり、笑うことによってどんなに力が湧いてくるのかを伝えたいという気持ちが強くなったそうです。

その後、徐々にテレビでの評価が上がって来た彼は、「人志松本のすべらない話(2004年)」に松本さんのサポート的な役割で出演し、培った話術を発揮して一気にブレイク。

2005年には芸名を、あだ名として呼ばれていた「千原ジュニア」と変えました。

2014年3月30日には、彼の40歳のバースデーに記念LIVEが開催され、8千人が両国国技館で彼の誕生日を祝いました。

ダウンタウン・松本人志さん、出川哲朗さんのほか、世界的ダンサーのケント・モリさん、イリュージョニスト・プリンセス天功さん、脚本家・宮藤官九郎さんらの著名人も企画に参加し、サプライズゲストとして明石家さんまさんも登場。

最後は「千原兄弟」の新作コントで〆め、約4時間半のライブは笑いに包まれました。

大阪時代、尖っていた性格から「ジャックナイフ」と称されていた彼は、今では「バターナイフ」と言われるほど丸くなったと言われます。

それでも「笑い」に対してはこれからも研ぎ澄まされた切れ味の良さを見せてくれるでしょう。たくさんの人が笑顔になるために。

 

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